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京都ホテルオークラ別邸 京料理 粟田山荘
歴史

昭和12年、西陣の織元の別荘として「粟田山荘」は生まれました。
贅を凝らした檜材を惜しげなく使った数寄屋造りには、昭和初期の京都のよき町衆文化が息づいています。

粟田山荘の歴史

青蓮院と地続きの粟田山の山裾、420坪の敷地に建坪150坪の二階建て数寄屋造りの建物、270坪の庭園を擁する粟田山荘は、昭和12年、西陣の織元細井邦三郎氏が建てた別荘が前身である。

贅を凝らした建物と庭園に注目される。
柾目の通った桧材を惜しげなく使い、数奇屋大工の冴えを見せる戸や襖のしつらえのよさに、よき時代の町衆文化の高さをしのばせる。
西陣織で巨富をなした戦前の旦那衆の羽振りの程は、今日の尺度を巧みに生かして、鞍馬石や貴船石などの名石を配した見事な庭園である。
鎌倉時代の灯籠が目をひく。
松、まき、楓などの植栽は、さえざえと観る者の心を洗ってくれる。

粟田口の歴史

粟田口は京の七口の一つである。
三条大橋を渡って、東海道の上り下りは、ここから始まる。
今の三条通は、明治になってから出来たもので、旧街道はその南一筋目、粟田山の麓にそう、ゆるい坂道がそうであった。
正しくは、三条白川橋に始まって、明智光秀の首塚がある梅宮社の前を過ぎ、蹴上に至る道筋であった。

知恩院から大楠が木の下陰をつくる青蓮院の前の通り、神宮道に向かってくだると、その旧街道と交叉する。
路傍に粟田口の石碑が見出せる。
旧街道をすこしのぼった右手に粟田神社の鳥居が見え、その手前に「京都ホテルオークラ別邸 京料理 粟田山荘」がある。

旧街道は、粟田神社とそれに続く仏光寺本廟の前を過ぎると、その先はウエスティン都ホテルに遮られて消えている。

かつて、この蹴上の急坂は旅人を多いに悩ました。

道は、日向神社のある大日山道に続いて上り下りし、日ノ岡峠を越えて山科に出て、再び逢坂山を越えなければ大津にでられなかった。

蹴上の、いま、浄水場になっている高台に与謝野晶子の碑がある。

――――――“お目覚めの鐘は知恩院聖護院 いでて見たまへむらさきの水”

明治39年に刊行した歌集「夢の華」に収められている歌が刻まれている。
晶子は、明治33年、山川登美子と一緒に与謝野鉄幹に会い、京都に遊んで、三人は粟田山の旅館「辻野」に一泊した。
その跡をしのんで建てられた歌碑である。
旅館「辻野」はもちろん今はない。
翌年、鉄幹、晶子の二人は再訪し、急速に恋愛が深まった。
粟田神社から仏光寺本廟にかけて粟田口鍛冶町の地名を残しているが、ここは平安から鎌倉時代にかけて粟田口の刀匠たちが住んだところと伝える。
江戸時代には、その子孫の吉光は、正宗と並ぶ名刀匠として知られた。
謡曲「小鍛冶」で有名な三条小鍛冶宗近も粟田口刀匠の一人で、三条坊に住んでいたという。
粟田口三条坊町の地名も残っている。
彼は稲荷神の熱心な信仰者で、神狐の加護を得て名刀子狐丸を打ったという。
仏光寺本廟に「三条小鍛冶宗近古跡」の碑が見られる。

粟田口といえば、江戸時代を通じて盛んであった粟田焼のことを忘れてはならない。
寛永の頃、陶工三文字屋九右衛門が粟田神明山の土で茶器を焼いたのが始まりと伝える。
京焼の歴史に重要な位置を占める。

粟田神社は素戔鳴尊、大己貴神をまつり祗園社と同じ性格の社である。
古くは感神院新官と呼ばれて、 青蓮院の鎮守社であった。
粟田口は、そもそも、青蓮院の膝元という歴史的背景を生きてきた。
青蓮院は、中世以来、天台座主の住房として比叡山と密接な関係を保ち、法親王が住持する粟田御所として華やかな公家文化に包まれてきた。
そうしたにおいが界隈には感じられる。

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